京都北山 初登山は大杉谷左岸から愛宕山 ’17.1.1  晴

 清滝-空也の滝-大杉谷左岸-愛宕山-水尾岐れ-西尾根-JR保津峡駅

 

 昨年は、特に後半の秋ころからは初めての京都検定や山科検定に追われてしまいました。でも、なんとかどちらも目指したレベルは取得できたのではとの結果とすることができ、やれやれでした。お蔭様で歴史ものにはそれなりの知識も得られ、今後はより楽しさ増す山歩きとすることができそうです。これからも暇を見つけて歴史文化等の知識会得に立ち向かいたく思う所存であります。

 さて、本題ですが、そのようなことから昨年後半の山歩きはさっぱりの状態でしたが、わたしの本日の山歩きはまず愛宕山でしょうか。愛宕といえば、やっぱり大杉谷左岸道です。でも、昨年はどうしたことかこの道を踏んだのは1月の2回だけでした。一年ぶりの大杉谷左岸道はちょっぴり新鮮なように感じられる歩きでした。しかし、昨年と同じで雪もなく、冬場にしては寂しい山でした。

 最初はやっぱり空也の滝にお詣りです。今回は清滝の歩き始めが9:20と遅そめで、ゆっくり歩きの滝には10時ころであったために、滝に打たれる行者さんの姿はありませんでしたが、いつここに来ても霊気さを感じる場所であります。

 
元旦の 空也の滝

 さて、空也の滝ですが京都観光ナビのHPによれば、「清滝から清滝川ぞいに山中に入った愛宕山麓にある滝(長さ12メートル)で、京都近郊では最大級。空也上人の修行の故地といわれ、近くに今も行者の道場がある。水は幾条にも分かれて岩肌を洗い、夏でも冷気ただよう。京都バス清滝下車5キロ」とあります。

 さらに空也上人といえば先のHPによると、「平安中期の念仏僧。903(延喜3)~972(天禄3) 生国不明。諸国を遍歴後、京都に入り、口称念仏を広め、市聖(いちのひじり)と呼ばれた。天台座主延昌により受戒、光勝の名を受けた。悪病流行時は勧進で仏像を造立。鴨川東に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立。同寺の空也上人立像は国の重要文化財で鎌倉時代に仏師運慶の四男である「康勝」の手によるものである。」

 この後は30~40分で「ひぐらしの滝」でした。さすがにこのあたりまでやってくれば、人の気配はまずもってありません。この地へは数知れないほど足を運んでいますが、この滝で人に出会った覚えは0であります。大杉谷右岸コ-スからもこの滝へ入って来られる道はあるのですが、ほとんど消えてしまっている状態でしょう。私もそちらからの出入りはもう忘れ去りました。

 静かな山歩きをのんびりと楽しみます。そして大杉谷右岸コースの一般道へ上がれば、すぐに登山者と行き交います。月の輪寺分岐からはさらにハイカーが多くなります。さらに上がれば、東山のどっかのお寺さんの庭園風のような岩が重なるように見える京見岩上あたりに上がってきました。なんと雰囲気のよい場所であります。そして下界を見下ろしますと桂川や広沢池が銀色に輝いて見えます。

 

 桂川といえばその上流が保津川です。戦国時代から江戸時代初期の間において、朱印船貿易等で活躍した角倉了以という豪商が開削した河川です。大堰川、富士川、高瀬川などの開削を行いました。地元京都では商人としてよりも琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名であります。

 また、広沢池については、「大覚寺・大沢池の東にある池。東西・南北各300メートルの灌漑用の溜池は、989年(永祚1)寛朝僧正が朝原山に寺を建立した時に開削した池で、別名遍照寺池とも。しかし秦氏が造成の説も。平安期は観月の名所として貴族が訪れ多くの歌を詠んだ。」とネット上で案内されています。

 このような歴史上の話を思い浮かべながら歩けば、目の前に愛宕神社が待っていました。愛宕山924mの山頂に祀られる愛宕神社ですが、今日は2度と温かくお札を求める人たちで賑わっていました。この護符は「阿多古祀符火廼要慎」と書かれた護符を京都の多くの家では台所に貼られるのが慣わしとなっています。また、愛宕神社は三歳までに子供が詣ると一生火難を免れると言われ伝えられています。

 

 さて、愛宕神社は本宮に涌産日命ほか4柱の祭神を祀り、全国愛宕神社約八百社の総本社です。社伝では大宝年間(701~04年)役行者が加賀白山を開いたといわれる僧泰澄を伴って愛宕山に登り、神廟を造立したのに始まるといわれます。
 一説には天応元年(781)に僧慶俊・和気清麻呂が勅を奉じ王城鎮護の神として阿多古社を鎮座したのに始まり、和気清麻呂によって中興され、愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺が建立されたようです。山中には、中国の五台山に模した月の輪寺、白雲寺、神護寺、日輪寺、伝法寺の五寺があったといい、古来、鎮火の神として崇拝され、白雲寺の本尊が勝軍地蔵のため武家の崇拝も集めたようです。
 天正10年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため籤を3回引いたという。翌日、同神社で連歌の会(愛宕百韻)を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされているようです。

 また、七月三十一日の夕方から八月一日早朝にかけての参拝は、千日詣りと呼ばれる通夜祭で、火難を免れる千日分のご利益があるとされています。山頂の神社で、この「阿多古祀符火廼要慎」の護符と樒を受け、これも台所に祀るのも慣わしです。

 こんな歴史を思い出しながら、ストーブ小屋でぬくぬくと小一時間のお昼とします。その間多くの人たちが出入りとなります。そして腰を上げましょう。

 石段を下るとすぐに青銅鳥居が立っていますが、両方の柱に猪の浮き彫りがあります。ネットによれば「これは神使の猪の浮き彫りとして施されているようです。昔からこの猪を舐めると、たちどころに足の疲れが癒されるといわれていたようです。ちなみに、猪が神使の理由について『京都民俗志』は「和気清麻呂が桓武天皇の命により都を定めるときに、先ず愛宕に登ってここを軍事上の要地としたとのことです。和気清麻呂は山を開いた恩人であるため、今でも社内に護国神として奥宮の十七の神様として祀っています。これにちなみ同社の神使も猪としたようです。」あるいは「愛宕は火の神。猪は火を好むので神使としたらしいです。亥の日に炉開するのも猪と火の縁による」といいます。他に、愛宕は萩の名所でもあり、萩には猪はつき物なので神使にしたともいわれます。

 

 また、青銅鳥居のそばには「石柵で囲って注連縄が張られている。本社前の礼拝石が上の亀石、鳥居本にあるのを下の亀石という。役行者が置いたと伝えられる名石。下の亀石と同様、何のために置かれたのかは分からない。社では、「神石」であることは間違いないが、名は特にないという。下の亀石と地中で繋がっているともいう。」

 続いて、表参道を下っていくと黒門が立っている。かたわらの駒札によれば「この門はもと愛宕山にあった白雲寺の京都側の惣門で、ここからが白雲寺の境内だった。境内には、福寿院、威徳院、長床坊、教学院、宝蔵院といった宿坊があった。愛宕山は、江戸期は神宮寺の白雲寺が実権を握る神仏習合の山であったが、慶応四年(1868)の神仏分離令によって白雲寺は破却。黒門は白雲寺の唯一の遺構となった。」とあります。銅板葺の高麗門で注連縄が張られています。愛宕神社には一の鳥居から青銅鳥居まで三つありますが、この黒門だけが高麗門で他の三つは両部鳥居様式であります。

 さらに下れば水尾別れとなり、そこを右折すればすぐで西尾根のとりつきです。これから急坂をどんどん下って鹿除け柵が終われば中尾根で、すぐ下に米買道の大岩となります。これよりわずかな歩きで急坂道を下れば水尾道の車道に降り立ちました。

 これで本日の初歩きはエンドとなり、これより15分もしないでJR保津峡駅でした。お疲れ様となってゆったりの元旦の電車は空いていましたので、腹抑えを食べ終えて電車に揺られていると、誰かに肩をつつかれ「京都駅ですヨ!!」と、粋な青年がにっこり笑って起こしてくれました。ヤレヤレ・・笑

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