高瀬山から愛宕山 ’20.11.30 曇

 保津峡-松尾谷林道-高瀬山-明智越-神明峠-愛宕山三角点-首無地蔵-梨子ノ木林道-清滝

  今回の愛宕山は、久々の高瀬山経由で登ってみた。度重なる台風、豪雨土砂崩れ等によって、最初の取りつきルートは完全に廃道となったしまった亀岡ハイキング道が復活目途が立たないのが残念である。なんとしてもそのハイキング道の一部でも歩きたいと思って、さらに5分ほど先の松尾谷林道から10分ほど進んでから、その沢沿いの廃道の途中から分け入った。この廃道コースの最初部分は沢上部の道が土砂崩れで危険すぎて無理っぽいことは知っていた。しかし、この途中からの沢歩き部分からはほとんどが倒木だけで土砂崩れはないために、倒木のみの歩きが続くも危険性はなさそうだ。

     
亀岡ハイク道は通行止め   松尾谷林道入口 

 松尾谷林道カーブ地点に↓左画像にある通行止の白い看板がここにも立っている。これより自己責任で進入する。いよいよ倒木だが、台風等から年数も経たことで、なんとか歩けるように枯れてきていた。半時間もしないで整備された山道に乗った。稜線に↓右画像地点に着けば、もうこの後は倒木等は少なくなって快適なハイク道となる。

     
  林道カーブ地途中から侵入だ・・   ここまで来れば後は暢気に歩こう 

 稜線に上がって、すぐ5分で3等三角点埋まる高瀬山であった。そこには8年前にネジキの幹につけられた高瀬山の山名札が健在であったのはやれやれだった・・。あのころは多くのハイカーの姿が見られたものだ。もちろん、私も愛宕へはこの高瀬山を踏んで、神明峠から登ったり、あるいは下山したりするのが楽しみであったのが懐かしく思い出された。

     
 高瀬山3等三角点も埋まってる   高瀬山340.6m、’12.10.14設置とあり 

 高瀬山からの関電巡視路道だからなのだろう。ルンルン気分で10分もしないで明智越に着いた。分岐を左折してすぐに亀岡の雲海が8時40分頃だというのに、まだ消えずに美しい雲海を樹林の中より眺めながら明智越歩きとなった。
 そして15分もしないで明智越から別れると、西向きの遠くには亀岡の雄でもある774mの半国山が頭を持ち上げていた。あの頂も何度も踏んでから大分経っているなぁ~と感慨深い。もちろん関西100名山でもあるのだ。

 
水尾尾根取りつきから遠くに半国山が見え 

 水尾尾根は関電の鉄塔が並んでいるのはもちろん、水尾の集落西側の尾根には、これまでからNTTのパラボラがあったが、いつの間にか設備は完全に姿は消え、敷地跡の周囲金網が寂しい姿で放棄されている。以前にはこの設備のすぐ北から東に下って「清和天皇陵」にお参りしてから、すぐ下の水尾においての忘年会で山友と一年を締めたものである。その仲間たちも、まだまだ元気に山登りをやっていることだろう・・。

 半時間ほど水尾尾根を歩いて真北へ進めば、そこは神明峠であった。この後も関電巡視路歩きだ。ただ、ここまでとは違い、この後は相当の急登が続くことが峠までとは違う点であろう。やっぱり小一時間もかかっていた。そこは山道の中のジープ道で、越畑、樒ケ原分岐に地蔵さんの祀られている分岐だった。800mあたりのここへ着けばやれやれで、この後は急登は済んでほとんど平坦地ばかりでありがたい。

     
八木方面の越畑へ行ける神明峠    地蔵さん埋まる樒ケ原分岐 

 愛宕神社の宮司さんたちが、ジープで神の一式等を運ばれる路なのだが、荒れやすい自然界の中での路の維持も大変なことであろう。杉並木の続く手前あたりから西南を見下ろして見ると、牛松山の頭が眼下に麗々しい。

 もう師走だ、一年が経つのも何と早いことか。12年前の丑年にも登ったのだが、来年の干支の山だから、やっぱりまた挨拶がてら登りたいが、おそらく我が身にとっては、最後の丑年の山となろう。
 そうそう、以前に阿倍野ハルカスが建つ前だったが、正月三ケ日にこの地から大阪の梅田界隈のビル群がハッキリと目にすることがあったのだが、その後は現在に至るまで正月の元旦であっても、その梅田のビル群は目にしたことはなくなっているのが残念だった・・。

 すぐに以前の台風で大倒木の散乱する山の斜面を北へ進めば、その先には旧愛宕山スキー場跡地が広がる。その樹林内一角には、関西圏のスキー場開拓者で知られる中山才次郎氏の胸像だが、その胸像は戦時中に鉄類の供出で今はない。しかし、その胸像と同じものが、滋賀県の伊吹山3合目にまだ残っている。その伊吹山もご無沙汰だが、今度伊吹山に登った時には中山才次郎氏の胸像にも手を合わせたいものだ。

     
ジープ道から眼下に牛松山    中山才次郎氏の胸像台座のみ残る 

 胸像台座跡周辺からは、裏愛宕のワンツーが座して見える。左に1等三角点の地蔵山、さらに右には竜ヶ岳が眩しい。愛宕とこの両者の頂へは、当方世からおさらばするまでは、事あるごとに足を運びたいものと考えるのだが、さてどうなることやら・・?。(笑)

 
    裏愛宕の地蔵山と竜ヶ岳 

 今日は歩くことばかりの一日となるが、そうは言っても植物にも目を向けない訳にはいかない。その中山才次郎氏の胸像跡近くでは、スキー場当時からだろう・・、イヌツゲ(↓右画像)の大木となっている古木が現在も元気に君臨している。樹木類も師走近いと、葉は坊主となって淋しい限りだ。せめて定点観察の木も眺めよう!。

 すると、竜ヶ岳分岐あたりで、M2さんという鉄人さんにまたまた出会った。この後は地蔵山へ行くとのこと。今年も今日が107回目だと言われる。軟弱な私ではとても真似はできない・・。

     
ズミも元気なさそう、ヤドリギも右につき    5m前後か、古木イヌツゲは立派 
     
ジープ道沿いのカマツカは台風で傷み     オオウラジロノキも実はまばらで元気なし

 ペットボトルへ水を足そう。年中水は涸れずに提供してくれる水場は有難い。そしてすぐに愛宕三角点地へ上がった。誰一人姿はないので静かだから昼食としよう。北風がある中で結構寒さには堪え、持っている衣服を着こんだ。木の枝にぶら下がっている温度計を見てびっくりした。6℃とは・・ブルブル

     
水場は元気も芦見谷は廃道化、入れず    今日の高み愛宕三角点地、昼食、6℃ 

 三角点地で半時間の昼食タイム後は、雑草扱いの地を踏み分けて首無地蔵への路に取りつこう。その最後は苔むすロープで岩場を降りた。そして半時間ほどで、いつ来ても穏やかで静かな首無地蔵の祀られる峠に下りて来た。そばにはカマツカが赤い果実をまばらに残していたのを見上げた後に撮った地蔵さんだが、カマツカの木も写真左↓に写っていた。

 あたりを振り向くと赤い自動二輪の郵便配達車が止まっていた。これまでから月の輪寺ルートでは郵便配達の方とも出会うことは多いのだが、首無地蔵コースからの郵便配達には初めての出会いだった。もっとも配達人らしき人の姿はなかったので、定かではないのだが、三角点から下山中には二人の方に出会っていた。その時には配達人らしき方とは見えなかったのだが、さて、どうだろうか・・?

 
首無地蔵と実をつけてたカマツカ 

 ところで、本日の注意箇所だからこの後のルートは注意して降りたい。もっともこの時季だから見るべきものはほとんどないので、首無地蔵さんから梨子ノ木林道もただ歩くばかりの降りとなろう。こちらの登山道は以前の台風等で大荒れに荒れ放題だったのだが、手を入れた方はなんと心ある方だろう・・。それが、なんたることか、もの凄い手間暇かけての道整備となっていた。それでも、足元注意しながらの状態で下山としよう・・。

 しかし、植林の大倒木の悲惨な様子には開いた口がふさがらないほどの荒れ様だった。さらに以前には林道が車でも入れるようにコンクリートで頑丈にできていたのだが、そのコンクリートすら崩れてしまってまともな状態は残ってはいないのだ。恐ろしい災害が発生したものである。

 林道終点地の大岩はそのまま動かず座っている。その場所へは地蔵さんから20分で降りて来た。この大岩から下へは昔はここまであたりには車でも入れたのだろう。でも、台風土砂崩れ等での被害によって荒れるに任せた状態とはいえ、勾配がそんなにきつくないことから、大岩までよりは歩きにくくはない。とはいえ距離がずっと長く、土砂崩れによる小石の散乱が激しくなかなか歩きづらいので捻挫等要注意だ。

 その大岩以降の部分でも、その間の上部あたりには梨ノ木大神碑が祀られていたのだが、その碑も台風洪水等で押し流されたようだ。この一帯は特に植林帯の倒木が酷そうだ。

     
 大岩までが車も入れたようだが・・   植林帯の倒木のきなみ無残な状態広がり 

 梨ノ木大神碑が祀られてたのだが、その碑(↓中)は岩のような基礎が丸事が移動している。この一帯が一番被害大きくみえ、思わず目を覆わんばかりとなっている。

         
 山の境界に立つメタセコイヤも痛み    梨ノ木大神碑も濁流に流され・・?     林道入口門扉そばにヤマコウバシ生き残り

 本日の終点清滝だが、京都バスが大幅にダイヤ改正で1時間に一本しかなくなってしまったバス便で、このような状態では、今後はJR利用しかコース選びが制限されるのが残念だ。こうであれば、ハイカーの数もさらに減少するのでは、との要らぬ心配だ。今回も帰着時間が上手くいかず、止む無く清滝川沿いに置かれる与謝野晶子の歌碑あたりまでうろうろと時間調整で、バス時刻の14:50までブラブラ散歩する始末となってしまった。トホホ

 
与謝野晶子の歌碑

『 ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 水の清滝 夜の明けやすき 』

 文化人や財界人の多くが青春を謳歌したといわれる清滝の常宿・ますや旅館が前の清滝川向かいに建つ宿を眺められるように、渡猿橋下のここへその石碑は建てられたのだろうか。

11/24西山に咲くシマカンギク ホームヘ 12/6晩秋のポンポン山






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